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「カティンの森」のおはなし 

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Written  By  New-Can   [ 2010年4月14日 01:28 ]     

Category  04-D. シネマレビュー  *  08. ニュース関連      BBS


日本では、あまり話題になっていないような印象を受けますが…
ポーランドレフ・カチンスキ大統領と同行していた妻のマリヤ夫人、さらに多数の有力政府高官などを乗せた大統領特別輸送機(Tu-154M 101号機)が10日、ロシア連邦西方のスモレンスク北飛行場への着陸進入中に墜落し、乗客乗員96名全員が死亡する…という非常に痛ましい事故がありました。

このようなケースの場合、「ご冥福をお祈り申し上げます…」というお決まりの一言で…
片付けられてしまうのが常ですが、ポーランド人の方の心情を斟酌すると、定型的な対応は非常識と言わざるを得ないような気がします。なぜならば、この飛行機はポーランド主催の…カティンの森事件70周年の追悼式典に出席するポーランド共和国政府訪問団を乗せた、特別なものであったからです。

前述したニュースも大きなキッカケとなりましたが…
日曜日に、近所の下高井戸シネマで、「カティンの森」(アンジェイ・ワイダ監督)を1人で鑑賞してきました。映画の内容云々よりも、まずはこの事件が起きた時代背景などを触れる必要があります。


時は、第二次世界大戦時の1939年9月。
ポーランドの西側からはナチス・ドイツが、東側からはソ連が其々侵攻してきました(※ソ連は宣戦布告なし)。“独ソ不可侵条約”の影響もあり、両挟みとなってしまったポーランドは敗北を喫し、国家は分断され、東部はソ連の占領下に置かれることになりました。そして、武装解除されたポーランド軍人や民間人はソ連軍の捕虜となり、強制収容所へ入れられてしまいました。


その後、1941年6月。独ソ不可侵条約は破棄され…
独ソ戦が勃発することになるのですが、同年8月、ナチス・ドイツ軍はソ連のスモレンスクの街を占領することに成功します。そして、ドイツ軍は、「スモレンスク西方20kmに位置するグニェズドヴォ村へ1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺された」という噂を耳にします。


そして、1943年2月27日。ドイツ軍は、カティニの森において…
“ポーランド人将校の遺体が埋められた場所”を発見します。さらに、再度調査を行った3月27日には、ポーランド人将校たちの遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていたことも確認します。報告を受けた中央軍集団参謀のルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフは、「世界的な大事件になる」ことを確信し、国際的に通用しやすい「カティン」の名を取って、“カティン虐殺事件”という報告書を作成します。そして、中央軍集団から国民啓蒙・宣伝省に送られると、宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用すべく、事件の大々的な調査を指示します。


この調査により、遺体は死後約3年は経過し…
コルジェスク収容所に収容されていた捕虜であること。あと、遺体は何れも冬用の軍服を装着し、後頭部から額にかけて弾痕が残り、後ろ手に縛られた結び目が「ロシア結び」であったことなどが…「ソ連軍によるもの」という大きな手掛かりになったとか。それでも、ソ連側の声明は…「“カティンの森事件”はドイツの謀略であった」の一点張り。。。


そして、第二次世界大戦終結後…
なんと、この事件に触れることはタブーとされてしまいます。ポーランドがソ連の衛星国となってしまったことや東西冷戦の影響など…色々な事情が重なったからです。しかし、第二次世界大戦後もポーランド国民の反ソ感情は強く、ベルリンの壁が崩壊した1989年、ソ連の学者たちはヨシフ・スターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官のラヴレンチー・ベリヤなどが命令書に署名したことを遂に明らかにします。さらに、翌年の1990年には、カティンと同じような埋葬の跡が見つかったメドノエとピャチハキを含め、ソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことをミハイル・ゴルバチョフ大統領も遂に認めることになります。


以上の通り、今では事件がソ連の手によるものだった…
という事実が明らかになっておりますが、50年間にも渡り、こんな凄惨な事件が真実が闇へと葬られてきたことは絶対に許されるべきことではありません。この作品を通じて、カティンの森事件に巻き込まれて父を亡くしたワイダ監督がポーランドで見てきた事実の伝承に対する執念など、強く感じ取ることができました。


それだけに、この作品で切り取られたヒトコマヒトコマ…その内容は、とてもリアルです。
重く、苦しく…シツコイくらいにズシッときます。凄惨なシーンも少なくなく、倒れた人の数は数えられないほど…。後にポーランドが辿った歴史も少なからず知っているだけに、ソ連軍に対する憤りも強く感じました。その影響か、最後のエンドロールで自分は凍りついてしまいました。「ここまでやるか?」と思ったし、真っ直ぐ家へ帰ることも困難なほどで…まさに、「立つのもやっと…」という状態でした。。。


この作品ほど、涙なくして観た作品…自分の記憶の中では殆どないと思います。
映像を直視するのも大変だったのが本音でしたけど…凄惨な歴史ほど目を背けてはいけないと思うし、いつか自分のためになるような気がしてなりません。

<Postscript>

余談ですが、ポーランド人と話をしたことが1度だけあります。
日本ではなく、旅行先のパキスタンのフンザで偶然。若い男の子で、人懐こそうな感じで本当に良い子でしたよ。カメラ片手に、色々なものを楽しそうに撮ってました。あのとき以来、ポーランド人に対するイメージが良かったりするのですが…今となると、「カティンの話もすることができたら良かったなぁ…」と思わずにはいられませんね。


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