第51回のテ〜マ:【Reader Leader】(2003.12.21.)


 いきなりで難ではありますが、先日、片山恭一氏の【世界の中心で、愛をさけぶ】という恋愛小説を読んでみました。ココ最近はともかく…自分自身、【モトモト本を読むという行為自体にあまり興味がナイ】というコトもあり、数週間前の朝のラジオ番組で、この小説の存在を遅蒔きながら初めて知った位なのですが、なんと初版が2001年の4月。しかしながら、ジワジワと火が付き、未だに売れ続けているとか…。さらに、来年(2004年5月)には大沢たかお氏等の役者陣を起用し、この小説の内容が映画化されるという話も決定しているとか…。自分には似つかわしくないジャンルではありましたが、“最近の流行を知るコトも良いコトかなぁ?”と思いまして…。敢えて読んでみるコトにしたのです。

 ちなみに、この小説に関して…僭越ながら、どんな内容かを大変簡単に書かせて頂きますと、【中学時代に朔太郎とアキという2人が学級委員をし、それをキッカケに仲良くなり付き合い、仲良く一緒の高校に進学。しかし、不測の事態が彼らを待ち受けていて、なんと高校時代にアキが白血病を患ってしまい、そのまま亡くなってしまう…という回想が“延々と”続き、残された朔太郎はどうなるのか…?】という風な感じで話が流れて行くモノでした…。残された方の性別は異なりますが、まるで、自分が中学生の頃(10数年前)にミリオンヒットした沢田知可子女史の“会いたい”というバラード(個人的には20世紀の名曲の1つ)の詞の世界を、著者がイッパイイッパイ引き延ばしたかの様でありました。

 そう感じてしまったせいでしょうか。正直な話、この小説に関して、個人的には…【あまり推せる内容ではありませんでした】。どうも、自分自身が考える“本の美学”とは大きく懸け離れ過ぎておりました。なんて言えば良いのでしょう…。厳しいコトを言うと、【たとえ死という状況が当事者達に訪れたとしても、回想シーンというか…恋愛に夢中になっているシーンがそれ以上に美しければ良い!】という本末転倒な理屈さえ汲んで取れました。さらに、恋愛小説でありながらも…【アキの死後の朔太郎に関する描き方が非常に雑で、内容的にもあまりに深みがない】が故に、興醒めしてしまいました。著者の作品は、まだ1作しか読んではおりませんが、【力量、及び美学は容易に分かってしまった】という感じであります。

 …おっと。チョット辛辣に論評し過ぎでしょうか(苦笑)。それでも、この自分も涙は流している1人です。やはり、回想シーンは上手く描かれてはいると思うのです。例えば、白血病に苦しんでいるアキという女の子が不安になりながらも、病気を前向きに捉えて行く過程は、美しかったですよ。苗字呼びから朔ちゃんって呼び方を変えるシーンをはじめ、度胸があるとか、動物園に行くとか…常に小説内においては、主人公の2人に対して、何かしら色が塗られておりましたし、頁を追う毎にその色が混ざり合って、彼らの恋が虹色の様に映ったのだと思います。そんなコトもあって、アキの心の内を想像せずにはいられず、涙したのだと思うのです。

 ただ、ドラマもそうですが、最近のストーリーはすぐに人を殺し過ぎるキライがあると思います。そもそも、“死”は人間にとって大き過ぎる事象であるコトは間違いなく…個人的には、恋愛小説において、“死”は安易に使って欲しくないテーマです。むしろ、それが普遍的な考えでなければならないとの認識です。ドラマもそうですが、父親を病気で亡くしている自分の様な人間にとっては、恋愛小説に死をテーマにした様なモノが頻発すると、【弱みを握られていた様な感覚】に自然となりますから…。また、どこかで愛における美学自体を勘違いする人間も出て来るでしょうし、彼らのためを思うと、その様な位置付けにしなければいけないと思います。

 そういえば、前述した“会いたい”という曲を作詞した沢ちひろ女史はこんなコトを言っていたと記憶しております。【詞の世界とはいえ、人を殺してしまったのは非常に辛くて、それから暫くは全く詞が書けなかった】と。身近な人の死を経験した人であれば分かるとは思いますが、意外と大切な人が亡くなっても、涙というモノはすぐには出ません。むしろ、涙を流すのはその前の過程であり、【残酷だ!と思ったが故に、流すモノではないかな?】という印象です。そういう訳で、死を間近にすると、【時が止まる】という感覚の方が正しいと自分は思うのですが、詞が書けなくなったという感覚に関しても、おそらく…それに似ているのではないかなという気が致します。

 故に、恋愛小説において、“死”という事象が絡んだ場合に関しては、再び時が動き出す迄の過程を事細かに書いた方が良いと思う訳なのです。【複雑な数式の解答に関する算出手順が書いてある参考書と書いていない参考書とでは大きな違いがある!】というモノと同じ概念が恋愛小説に当てはまって然るべきなのです。

 余談ではありますが、自分は前述した本を読んだ後、浅田次郎氏の短編小説集【姫椿】の中における【シエ】というモノも読みました。人間とペットの差はありますが、コレに関しても…30代の独身女性の愛猫が死んでしまうという内容から始まり、【またこういう系統に当たっちゃったよ…】という感じでいたのですが、この後の展開が非常に丁寧に描かれていて、抜かりがナイのです。実は、愛猫が亡くなり、傷心しきってしまった独身女性が、偶然ペットショップで中国の伝説の動物と巡りあい、再びペットを飼うコトになるのです。もともとペットが好きなせいか、とてもカワイクなって来て、ツイツイ日頃の愚痴迄もこぼしてしまう位になってしまうのですが、その動物は何日経ってもなぜか餌を全く食べないのです…。動物である以上、食べなければ当然死んでしまうのですが…この後の“再び時が動き出す感覚”の描き方が秀逸で、本当に心温まるのです(あらすじを書き過ぎてしまい、申し訳ありません:謝)。片山氏には申し訳ないですけれども、浅田氏の底力を感じた作品でしたし、これこそが、本の世界における死を取り扱った作品の美学のスタンダードであるべきだと改めて思いました。

 価値観に対して、とやかく言うコトは難しいコトかもしれませんが、【普遍的なモノはどこかでなければならない】と常々思います。今回は…【人間が好きであるならば、自分自身が間違っていると思ったコトに関しては、自分自身が思うがままに憂うモノも書かなければならない】との考えのもとで書いておりますが、もし感想等ありましたら、それを前提条件として頂ければ幸甚です。

 世界の中心ではないHPであり、どれだけ自分の愛が届くか分かりませんが、以上にて、【世界の中心で、愛を叫んでみたツモリの拙いエッセイの積み残しは無】と致します。。。

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