第46回のテ〜マ:【見えない視線】(2003.07.10.)

 長崎市で4歳の種元駿ちゃんが12歳の中学1年生に殺されるという事件がありましたが、このニュースを聞いて、人は何を思うのでしょう…。そして、犯人が14歳以下であるが故、【罪が科されない】というコトに対して、何を思うのでしょう…。

 俺は【とうとう来たか…】なんて風には思いたくないし、こう書くだけで哀しくなります。なんといっても、歯痒くてたまらないコトは、この中学生に対して、【大人の様には罪が課されない】というコトです。なぜに年齢制限があるのでしょう? いらんでしょ? 小学生でも、やったコトがやったコトであれば、監獄行きで良いではないですか。【そんな保護する法律があるから、訳分からんガキに“1度やってもまだ大丈夫”的な感じでナメられるんだ!】という俺の発想は、果たして屈折しているのでしょうか。。。

 そういえば、最近…今回の様な【低年齢者による凶悪事件】を聞いて思うのですが、俺ら(1970年代中期生まれ)が小さい頃は…例えば、両親とかに【人に迷惑をかける様な悪いコトだけはするなよ。悪いコトをしたときは、誰か(神様 or 仏様)が必ず見てるからな!】などと、よく言われたはずなんです。しかし…この様な事件が起こるというコトは、【そういうヒトコトを発する親がいなくなってしまったのではないか?】と俺は思えて仕方ないのです。【そんなのは嘘だから…】とハナから分かっている様な事実は、今の親は最初から言わないのでしょうか? もし、そうであるならば…【随分と…まぁ、自分の子供を信用している様で。自分の子供は大丈夫的な発想の極致でしょうか?】といった感じの皮肉でも言ってやりたいですわ。というのも…こういう嘘って、小さい頃から口酸っぱく言われていると、チョット悪いコトをしてたときに限って、急に脳裏を過ぎるコトがあるからなんですよ。例えば、【周囲からの自分に対する視線がナイのは分かっていても、なぜかオドオドしてしまう】といった様なコト。コレって、どこかで正義感に溢れている証拠だと俺は思うし、心が純粋である確固たる証だと思うのですよ。。。

 だからこそ、俺は…【親には、自分の子供に対して、良い影響を与える嘘を付いてもらいたい!】と思うのですが…もし、親が嘘を多角的に捉えられなくなっているのであれば、俺は、【今すぐにでも、小学校には僧侶か牧師を必ず1人置くべきなのではないかな?】と思うのです。まぁ、要は…【ある程度、ワールドスタンダードな宗教を義務教育化しろ!】という話である訳なのですが、幼少期…毎週日曜日、当たり前の様に教会の礼拝に通っていた俺の経験からするに…こういう立場の人間の話を小さな頃から繰り返し聞いていると、人格形成的にも非常に良い影響を与えると思うからなんです。

 例えば、日曜礼拝では…【もし、君が〜な立場ならどう思う?】と牧師に聞かれるのが当たり前であったり…説教が終わるときは、必ず両目を閉じて、左右の手を握り、英語でいう“I hope that 〜”的なコメントを牧師が述べて、最後に【ア〜メン】ってな形で終わったり…というのがスタンダードだと思うのですが、これがですねぇ…明るく楽しい瞬間(読み:とき)ではないかもしれませんけれども、自分自身の心にズシッと響くのですよ。本来であれば、道徳の授業にて教えるべきコトだと思うのですが、道徳の現状って、【あってナイ様な教科】という感じでしょう…? そんな教科にいつまでも頼っていてはいけないですし、公立の学校でも宗教をやるとなれば、私立の学校の授業費が安くなるなんてコトもあるかもしれないんですよ。そして、キリスト教であれば、場合によっては、賛美歌を唄ったりもするかもしれないので、その場合は…音楽の授業が増えるというコトにもなりましょう。メリット、多々あると思うんです。まぁ、チョット感受性が強くなり過ぎるかもしれませんけどねぇ…(;^^)

 でも…損するコトはナイと思います。大人になればなるほど、むしろ貴重な経験になると思います。なんといっても、【自然と相手のコトを思いやる能力が長ける】のはもちろんのコト、授業時間内に短い感想文を書く様な作業時間も与えれば、【傾聴力】…これが、“ある程度は身に付く”という利点があると思うのです。

 特に、後者は同世代とばかり、話していると…なかなか身に付かない能力だと個人的には思うのですが、最近では違う世代はおろか、子供の数の絶対数も減少したために、話す機会そのものが、昔と比べて格段に減少していると思うのです。そのせいか、自分達の世代以降なんかは、年上の言うコトを斜に構えて、イイ加減に聞く人間が増えて来た気もします。損するのは、自分自身なのにねぇ…。そして、喋る相手が1番嬉しいコトって話を真剣に聞いてくれるコトであって、人と人との繋がりを深める手段は、そのキャッチボールを繰り返すコトしかナイのにねぇ…。

 実際、俺は…こんな自分自身のコトを、どこかで見ている人間を増やしたいという気持ちもあって、どんなに忙しくとも…このHPを閉じずに頑張っております(友達のHPにカキコする機会が少なくなっておりますが…謝)。視線の数に比例して、自分自身…成長できると思っているからです。他人の視線って、自分が考えている以上に鋭いモノですからね。本当に励みになりますよ!

 しかし…今回の事件における加害者の中学生は、結局ココまで頭が廻っていなかった。勉学の成績が良くとも、こんな視線が少なかった。結局…彼は自分のために生きていたんですよね。生きるって、自分のためだけに生きている訳ではなくて、色々なモノを少しずつ背負って、言葉のコミュニケーションで他人に対して、自分が背負って来たモノを正確に伝達するコトが求められている世界だと俺は思うのです。伝達するコトがまだ残っていると判断して、生かされていると思っても良い位ではないでしょうか。そんな視線に応える義務が、俺はこの世で生きている人間には皆あると思っております。。。

 こんなコトを、こういうロ〜カルなHPでしか物事が言えない環境が個人的には非常に歯痒くてたまらないですが、以前から言いたかったコトが十分書けた気がするので、今回はコレで良しと致します…。以上にて、今回は【この拙いエッセイを今後の種元家の皆様の幸せを願いながら、積み残し無】とします。。。

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