第8回のテ〜マ:【南会津旅情等 3】(2002.12.28.) | |||||||||||
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朝霧が凄まじかったジャンボ健康ランドを5時30分過ぎに出発し、まずは会津若松駅に向かいました。冒頭に書いたような思い出の地であるので、誰もいないときに駅舎を撮りたいなぁ…と思いましてね。駅前の雰囲気は画像@の通りです。鶴ヶ城を多少意識したモノ?って感じです。ちなみに、若松駅ですけど…商店街から遠く、街の中心部からは、かなり外れたトコにあります。バス停だけの中心部というか…そんな感じです。他の中心は、只見線と会津鉄道が通る隣駅の七日町(読み:なぬかまち)周辺のようで、そちらの方が主要な観光名所には多少近いです。ハイ。
今回の自分は時間も時間(朝6時)であったので…バスなど走っている訳がなく、まずは歩いて廻るコトにしました。若松駅から徒歩で10分少々行ったトコのアーケード街の方ですかね。興徳寺というお寺がありまして、入ってみると…お墓がありました。誰のモノかを見てみると、蒲生氏郷公のお墓(画像A)でした。【あれっ? この人は伊勢の方を収めていた人でなかったけ?(ウチの親戚は、伊勢の隣の伊賀ですから、なんとなく…:^^;)】という感じだったのでしたが、晩年は会津に居を移していたようです。ただ、この興徳寺自体が小規模で、氏郷クラスの人間がなぜ…と思っていたのですが、会津とは切っても離せない“戊辰の兵火”に遭ってしまったが故、戦国時代以前から会津を統治していた葦名氏の頃からあった由緒正しき大寺院の面影がなくなってしまったようです。。。 この後は、城好きなので、城を観るために、画像Bの鶴ヶ城まで一気に歩きました。若松駅から徒歩ですと、4〜50分はあったでしょうか…(七日町の次駅にあたる西若松駅からが1番近そう)。ちなみに、この鶴ヶ城…モトモトは“黒川城”といい、葦名氏の時代からの本拠でしたが、先程の氏郷が会津を統治するにあたって、城は七層の大天守閣(現在の天守閣は再建モノ)にしたり、街並みを整備し、産業を起こしたり…土地名(氏郷の故郷の森が由来)までも変更したようです。【現在の若松の基礎を築いたのは蒲生氏郷である】のような話を、歩きながら多々学びました。ちなみに、画像Cについては、歴代の鶴ヶ城(黒川城)の城主の家紋があったので、撮ってみた…という感じです。 最後に余談でも…鶴ヶ城は明治時代に陸軍により取り壊された(戊辰戦争で新政府に反抗した故でしょう)のですが、その時代に生まれたモノが土井晩翠による“荒城の月”という曲の詞だとか。作曲した滝廉太郎が故郷の大分県竹田市の岡城址がモデルにして作ったというのは有名な話ではありましたが…名曲には、このようなトコにも共通点があるのですね。
〜その他メモ〜 |