第8回のテ〜マ:【南会津旅情等 3】(2002.12.28.)


@〜K会津若松

 会津若松(→地図←)は、実はこの俺が4年間住む可能性があった思い出の土地です(知っている人はホトンドいないと思う)。浪人時代(1996年)、実はセンター試験の数学で大ゴケをしてしまい、【東京都立科学技術大学にはまず受からないだろう】と思っていて、その当時…新興系ではありましたが、外国人の教授も多く、英語もキチント教えてくれる雰囲気がプンプンで、大学自体のレベルがドンドン上がりそうな雰囲気があった会津大学に行くツモリでおりましたから…。科技大合格前は、東京に残れる法政大学等との選択では、譲れない夢であった音楽等との挟間で、かなりの葛藤がありましたね…ハイ。しかし、この後…人生とは不思議なモノで、これら2つの大学の後に受験した科技大の受験者が異様に少なかったコトもあり、また難問だったらしい?微積の問題が上手いこと解けてしまい、見事合格…という訳で、結局東京に残ったのですが…。人生は不思議なモノです。おそらく、会津に行っていれば、現在の友人関係はもちろんのコト、勤務先も大きく異なるモノになったコトは間違いありません。現時点において、1996年以降築いて来た関係については捨て難いモノではありますが、【人生をもう1度やり直せるチャンスがあるのであれば、会津大学を選択して人生をやり直してみたいなぁ…】という気持ちは、一生消えるコトはナイでしょう。自分にとっての進学大学の選択は、それぐらい悩んだ末の結果でしたから。。。

@会津若松駅

A蒲生氏郷公のお墓

B鶴ヶ城T

C鶴ヶ城U

 朝霧が凄まじかったジャンボ健康ランドを5時30分過ぎに出発し、まずは会津若松駅に向かいました。冒頭に書いたような思い出の地であるので、誰もいないときに駅舎を撮りたいなぁ…と思いましてね。駅前の雰囲気は画像@の通りです。鶴ヶ城を多少意識したモノ?って感じです。ちなみに、若松駅ですけど…商店街から遠く、街の中心部からは、かなり外れたトコにあります。バス停だけの中心部というか…そんな感じです。他の中心は、只見線と会津鉄道が通る隣駅の七日町(読み:なぬかまち)周辺のようで、そちらの方が主要な観光名所には多少近いです。ハイ。

 今回の自分は時間も時間(朝6時)であったので…バスなど走っている訳がなく、まずは歩いて廻るコトにしました。若松駅から徒歩で10分少々行ったトコのアーケード街の方ですかね。興徳寺というお寺がありまして、入ってみると…お墓がありました。誰のモノかを見てみると、蒲生氏郷公のお墓(画像A)でした。【あれっ? この人は伊勢の方を収めていた人でなかったけ?(ウチの親戚は、伊勢の隣の伊賀ですから、なんとなく…:^^;)】という感じだったのでしたが、晩年は会津に居を移していたようです。ただ、この興徳寺自体が小規模で、氏郷クラスの人間がなぜ…と思っていたのですが、会津とは切っても離せない“戊辰の兵火”に遭ってしまったが故、戦国時代以前から会津を統治していた葦名氏の頃からあった由緒正しき大寺院の面影がなくなってしまったようです。。。

 この後は、城好きなので、城を観るために、画像Bの鶴ヶ城まで一気に歩きました。若松駅から徒歩ですと、4〜50分はあったでしょうか…(七日町の次駅にあたる西若松駅からが1番近そう)。ちなみに、この鶴ヶ城…モトモトは“黒川城”といい、葦名氏の時代からの本拠でしたが、先程の氏郷が会津を統治するにあたって、城は七層の大天守閣(現在の天守閣は再建モノ)にしたり、街並みを整備し、産業を起こしたり…土地名(氏郷の故郷の森が由来)までも変更したようです。【現在の若松の基礎を築いたのは蒲生氏郷である】のような話を、歩きながら多々学びました。ちなみに、画像Cについては、歴代の鶴ヶ城(黒川城)の城主の家紋があったので、撮ってみた…という感じです。

 最後に余談でも…鶴ヶ城は明治時代に陸軍により取り壊された(戊辰戦争で新政府に反抗した故でしょう)のですが、その時代に生まれたモノが土井晩翠による“荒城の月”という曲の詞だとか。作曲した滝廉太郎が故郷の大分県竹田市の岡城址がモデルにして作ったというのは有名な話ではありましたが…名曲には、このようなトコにも共通点があるのですね。



D白虎隊の墓





F戸ノ口堰洞穴





Hさざえ堂





J武家屋敷U

 鶴ヶ城の次は、飯盛山に向かいました。会津若松といえば、忘れてならぬのが白虎隊の話であります。画像Eの飯盛山から彼らが鶴ヶ城を観た際(画像Dの銅像の方向)、城周辺の火事を鶴ヶ城陥落と勘違いして、自害してしまった…という。しかも、現在の高校生位の年齢ばかり…という。そんな悲劇の事実があるココには、いつかは訪れなければならないと以前から思ってはおりました。。。

 ちなみに、行ってみて分かった話なのですが…会津の戊辰戦争の話って意外と正確な話を知っている人間は少ないと思いますよ。皆が知ったかぶりというぐらい、実は深いというコトが分かりました。実は、白虎隊で自害したのは、白虎士中二番隊という一部という事実。さらに、この部隊の中で助けられた人間が1人(飯沼貞吉)だけいるという事実。結局、生き残った人間がいないと…後世に生々しく伝わるコトってナイんですよね。追撃を避けるために、飯盛山から鶴ヶ城の情勢を確かめようとして、帰城の途中に画像Fのような洞穴を通過したなんて…考えませんよ。もっと現実的な話になっていたコトでしょう。画像Gのように、ローマから記念碑が送られるコトもなかったでしょう。こうして辿り着いた飯盛山で…と考えると、ただ涙に咽ぶばかりでした。。。

 余談ですが、会津の戊辰戦争では女性も戦っていたらしいですよ。確か、コレもスゴイ話だったんですよ…。【女はダメだ!】と言われて、丸坊主にして…(以下忘却:謝)。会津若松ガイド役として頑張っていたタクシーの運転士さんらしき方が、自分の真横で白虎隊記念館(飯盛山にあります)の展示物を見ながらそのような話をされていたのを覚えています。

 最後に、画像H〜Kについてでも。Hのさざえ堂(国重要文化財)は、飯盛山にあります。この内部は、階段がない上に、上るときと下るときの通る道が違うのですよ。よって、一方通行で入口の位置と出口の位置も違います。こうした理由はですね、会津から観音巡りの旅をするのは大変だから、1つの建物にそれらを詰め込んで一気に廻れるようにすれば、民衆が喜ぶだろうから…というもののようです。。。

 IとJは、飯盛山の後に行った武家屋敷です。会津若松の土地勘がある方には、【飯盛山と廻る順序が逆でしょ?】って言われそうですけど、これは単なるオープン時間の問題です。ハイ…(;^^)。ちなみに、この武家屋敷…【んなトコにあるの?】的なトコにありました。鶴ヶ城からも、飯盛山下からも徒歩で20分位あった気がします。若松の中心街から大きく離れたトコにある“あからさまな移設モノ”、且つ“外から眺めるだけのモノ”なので、【博物館的趣向で訪れるのであれば、良いとは思いましたが…】という感じでした。。。

 Kは若松市内を走る周遊バス・ハイカラさんです。最近、あちこちで見られるレトロ調のバスで、1時間に1本走っていて、料金は“200円均一”でした。若松の観光名所は点在しているので利用しがいある(2回乗りました)とは思いますが、1ヶ所1時間ピッタリで終わるかというと…。あと、【小さ過ぎてすぐに満員になる】という欠点が…(;^^)。武家屋敷から飯盛山への移動とかは徒歩だと結構大変ですから、【土休日は1時間に2本あれば良いなぁ…】と思いました。



E飯盛山より





Gローマからの記念碑





I武家屋敷T





K周遊バス・ハイカラさん

〜その他メモ〜
 会津若松には、自分には絶対買えないお土産が幾つかありました。何かというと、白虎士中二番隊の名前がプリントされたモノ。とある土産物屋のオバちゃんと立ち話をしたのですが、結構売れるみたいなんです。俺やこのオバちゃんなんか、彼らの名前を見ただけで涙してしまう位で…【ある意味で、買えるモノじゃないよねぇ…?】と話したりしたのですが、コレは歴史における教養の差でしょうか…? 不思議な感じでした。。。

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